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今月の俳句

俳都松山。幼い子規(1902年になくなりました)が走り回った
銀天街周辺・松山に縁のある俳句をご紹介しています。
  
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2005年7月   扇風機止まり 醜き機械となれり            篠原 梵
郷土の人としてあまり知られていませんが
梵は豊かな感性と深い知性による清新な作風で一時期俳壇を魅了しました。
今までの俳句にないハイカラさが漂っているといわれました。
中央公論の編集者だったことも影響しているのかもしれません。
職責の重さを自覚し、この間句作は中断、再開後センスを感じさせる句を詠み続けました。
他の代表作は
蟻の列しづかに蝶をうかべたる
葉桜の中の無数の空さわぐ
2005年4月   さくら活けた 花屑の中から 一枝拾ふ                  河東碧梧桐
碧梧桐の句は子規門で虚子と並び賞せられた割に知られていません。
この句碑は、昭和7年、松山刑務所内に入所者の情操教育のために建てられたそうですが、
昭和28年8月1日、彼の17回忌を記念して市役所前の堀端(二番町四丁目)に移されました。
再び平成8年に工事のため現在地(市役所北側)に移されている。
この句は、句碑の建つ8年前の大正13年、52歳のときの句である。
当初碧梧桐は、子規門下の俊英と嘱望され、印象的、絵画的な句を作っていたが、
後に「新傾向」に走り、季題や定型にこだわらない句を作っている。
近代自由律俳句のさきがけといってよい存在だと思います。
句碑めぐりhttp://www.lib.ehime-u.ac.jp/KUHI/JAP/より抜粋
2004年11月  秋いくとせ 石槌を見ず 母を見ず 石田波郷
この句碑は波郷の出身校垣生小学校にあります。
母危篤の報で帰省する車中で詠まれたとされます。
波郷は昭和俳壇の巨星とたたえられました。
波郷のくわしいサイトをみつけましたので参考までに。
http://home.e-catv.ne.jp/ja5dlg/hakyou/hakyou1.htm
2004年09月  子規忌過ぎ 一遍忌過ぎ 月は秋 酒井黙禅 
 この句碑は時宗の開祖一遍上人ゆかりの道後宝厳寺にあります。
色里や十歩はなれて秋の風 子規 の句でも紹介した新田兼市氏(一遍上人研究に後半生をかたむけられました)が
時宗開祖一遍上人成道700年を記念して建立されました。
一遍忌は9月16日子規忌は9月19日です。
片や鎌倉の宗教界、片や明治の文学界の革命児としての業績は何か似たものを感じます。
2004年07月 涼しさや 馬も海むく 淡井坂  子規 
 現在の粟井坂は松山から北条に向かう場合、左が海、右は斜面を予讃線が通る小高い丘の景色のよい所ですが、この句のよまれた荷馬車の時代は峠越えの難所だったそうです。明治11年に道路がつくられ、その後昭和15年現在の国道196号線が開通して見晴らしの良い快適な道路になりました。
どちらにせよ、この句は海からの風の爽快さが馬を通して見事に表現された名句だと思います。
(この地方が昔から風早郡と呼ばれていたのも、子規の頭にあったかもしれません)
 ホトトギス大正6年12月号に(前略),虚子が「其苦しい道の木標の一つであった弁天様の赤い建物を後にして私の車は間もなく粟井坂に来た,此坂は松山から柳原に行く第一の難関であって昔は車は通らなかったのであるが今は山上を通ることをやめて山の海中に突出して居る所に道を作って」と書いている。
松山句碑巡りに詳細な記事があります。http://www.lib.ehime-u.ac.jp/KUHI/JAP/kuhi205.html
2004年05月 城山の 浮かみ上がるや 青嵐 子規
松山市駅前ロータリーにある句碑です。
左に子規の墓碑銘の写しがあります。

正岡子規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升
又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺祭書屋主人
又ノ名ハ竹の里人伊豫松山ニ生レ東京根岸ニ住ム
父隼太松山藩御馬廻加番タリ卒ス母大原氏ニ養ハル
日本新聞社員タリ明治三十□年□月□日没ス
享年三十□月給四十圓

これは子規自ら河東可銓(碧梧堂の兄)に託した有名な墓碑銘の実物大の写しです。
最後の月給40円が話題になります。
40円の額が子規の誇りであったとか、諸説あるようですが、
これは日本新聞社主陸羯南に厚遇されたことへの感謝の気持ちと、
子規のヨモダの精神の発露ではないでしょうか。
2004年04月 東雲の ほがらほがらと 初桜 鳴雪
松山市の天然記念物、東雲桜です。東雲神社参道左に2代目があるようです。
この句碑も東雲神社にあります。
これは明治26年子規庵での作。
内藤鳴雪は、江戸・三田の江戸藩邸中屋敷で生まれました。
少年時代は子規の外祖父の大原観山に漢詩を学び、後に子規が上京して給費生として常盤会寄宿舎に入った時、
寄宿舎の監督の立場にあった鳴雪は、子規の影響で俳句を始めます。
(常盤会というのは、維新後、旧藩主久松伯爵が旧藩士の子弟の教育の為に本郷真砂町に設置したもので、
人材の育成、素行の監督と経済的支援がその設置の目的でした。
正岡子規が常盤会寄宿舎に入舎したのは明治二十一年九月45才の時です。
鳴雪の後、舎監を務めるのが日露戦争で活躍した秋山兄弟の兄、秋山好古です。)
そこで
詩は祖父に 俳句は孫に 春の風 
という句になります。
他に代表句としては
元日や 一系の天子 不二の山
2004年02月 梅の香や おまえとあしの 子規真之 黙禅
今、城山と堀の内の梅が見ごろです。
既に旧聞になりますが、2003年「坂の上の雲」のNHKテレビドラマ化が決定しました。
真之は大学予備門で子規と同窓、「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直チニ出動、之ヲ撃滅セントス・・・」
と起案した若手参謀の一文に「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」の一筆を加えた美文調の電文はあまりにも有名です。
坂之上の雲では真之は本来、作家志望だったように書かれています。
しかし司令部では、この危急存亡のときに何を気取っているか、と評判が悪かったそうです。

おまえとあしは「おまえ(汝)とわし(我)」の古い松山方言です。
松山方言といえば「坊っちゃん」の「なもし」があまりにも有名ですが、
ドラマ化にあたって、全国の方に是非、京都の人も逃げ出すといわれた、
鄙びた中に床しい、昔ながらの松山弁を紹介して欲しいと願ってやみません。
最後になもしをつけただけの松山弁になりませんように。
この句の作者酒井黙禅は(1883-1972)は、福岡県八女郡水田村に生まれ、
熊本第五高等学校より東京大学医学部を卒業し、東大俳句会に入って句作を始めました。
後に高浜虚子に師事して「ホトトギス」の同人になった縁でしょうか、大正9年3月に38歳で日赤病院長として松山に赴任しました。
虚子は「東風の船 博士をのせて 高浜へ」という句を送っています(高浜は虚子のことではなく、松山の港の名前です)。
彼は松山の日赤病院長として1954年まで29年間勤めました。
2003年12月 いくたびも雪の深さを尋ねけり 子規
雪を慨嘆する俳句としては一茶の「これがまあ ついの栖(すみか)か 雪五尺」が有名ですが、
それに比べてこの句は何の感情の昂ぶりもなく、唯淡々として日常に良く出てくる言葉を句にしただけです。
勿論病床の子規が雨戸を締め切った冬の日、家族に何度も雪の深さを尋ねる情景がこの句を名句にしているのですが
その名句たるゆえんがこの水が流れるような平明な表現にあるでしょう。
病床六尺などの日記にはその壮絶な闘病が克明につづられているにもかかわらず、
その間の作句においては、悲壮感のあふれるものは皆無といってよいと思います。
そのあたりが短歌における「アララギ派」のますらおぶりと称されるものと根は一緒なのかもしれません。
すくなくとも「泣きぬれて蟹とたわむる」ような表現とは無縁です。
蛇足ですが南国松山生まれの子規にとって、雪が降り積もる情景は庭をかけまわる犬のように心躍るものであったに違いありません。
2003年10月 色里や十歩はなれて秋の風 子規
明治28年10月同居中の漱石と子規は道後温泉での入浴の後、
すぐそばにある当時の遊郭松枝町を通り宝厳寺に参ります。
これはその時の句です。
宝厳寺は鎌倉時代踊り念仏で諸国を回り、
遊行上人と呼ばれた一遍上人の生誕地と言われています。
一遍上人は時宗の創始者として日本の宗教的発展に大きな影響を与えた方で、
近代文学における子規の業績と重なるほど偉大な存在です。
子規も「当地第一の豪傑なり」と述べています。

子規忌すぎ一遍忌すぎ月は萩  黙禅

尚、宝厳寺にあるこの句の句碑は新田兼市氏が建てたものです。
新田氏は後半生を一遍上人の研究に捧げたかたですが、氏は私の父の友人で、
毎日のように碁をうちに来られていた記憶があります。
今もありますが、道後商店街の一遍堂を経営していらしたと思います。
2003年08月 桔梗いけてしばらく仮の書斎哉 子規
漱石が松山で英語の先生をしていたことは有名ですが、その前明治25年既に子規を訪ねて松山に来たことがあります。
明治28年松山に赴任した漱石はニ番町に居を構え、ここを「愚陀仏庵」と称し自ら愚陀仏と号します。
(有名な逸話として漱石の給料が80円、当時の松山中学校長の給料は60円)
旅の好きな子規は心配する周囲を押し切り、日清戦争の従軍記者として中国に行きますが、
帰途の船中で大喀血に見舞われます。
しばらく神戸で静養したあと、子規は松山に帰り、この漱石の愚陀仏庵に押しかけ同居をはじめます。
漱石はニ階に追いやられ、連日一階で子規は句会を催します。
当然漱石も参加させられ、この時の経験が後の大文豪誕生の契機になったと考えられます。
この間(8月29日〜10月17日)50日間
10月19日子規は東京根岸の子規庵にもどるべく三津浜から乗船し、二度と古里松山に帰る事はできませんでした。
愚陀仏庵での二人の別れの句
行く我にとどまる汝に秋二つ  子規
御立ちやるか御立ちやれ新酒菊の花  漱石

帰路、子規は奈良により、有名な「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を作りました。
2003年06月 萬緑の中や吾子の歯生え初むる 草田男
「降る雪や明治は遠くなりにけり」と並ぶ中村草田男の代表句。
万緑はこの句により初夏の季語となりました。
溢れるばかりの緑が濃さを増した季節と赤子の歯万物の気が満ち、さあこれからと奮い立つ木々懐の中、
赤子が笑う口の中の歯、生命力の横溢を並べることで見事な句にしています。
王安石の詩「万緑叢中紅一点」から着想を得たと伝えられています。
後の主催誌「万緑」はこの句から採られました。
2003年04月 春風やふね伊豫によりて道後の湯 極堂
柳原極堂の句。子規に大いに誉められたそうです。
中句の字余りがのどかな松山らしさを醸しているようです。
極堂は一生を子規の顕彰に捧げました。
子規の意を汲む形で「ホトトギス」を創刊、後に虚子の手で飛躍します。
「ホトトギス」に載ることが俳句人の夢であった時代が永く続きました。
漱石が「我輩は猫である」を連載したことでもしられています。
極堂は90歳の長寿を得ました。
温厚・誠実で松山人の鑑といってよい人柄だったそうです。
2003年03月 くれなゐの梅散るなへに故郷に つくしつみにし春しおもほゆ
明治35年子規の亡くなった年の3月 伊藤左千夫が紅梅に土筆の鉢を持ってを訪ねて来た時の歌
子規の歌のうち最初の歌碑になった歌でもあります。
食いしん坊の子規はつくしが好物で「つくしほど喰うてうまきはなく、摘んで面白きはなし」と述べている。
31文字の中に「に」を2回「つ」を2回「し」を2回使っている。
これが上品なリズムを醸している。
石手川の土手を飛び回っていたであろう子供時代。
病床の子規との対比が悲しい。

仰臥漫録に碧梧桐が赤羽根につくしをつみに行くと聞いて、10余りのつくしの歌をのこしています。
☆つくつくしつめて帰りぬ煮てやくはん ひしほと酢とにひててやくわん
☆つくつくし長き短き何もかも 老いし老いさる何もかもうまき
☆つくつくし又つみに来む赤はねの 汽車行く路と人に知らゆな
☆つくつくし故郷の野につみしことを 思ひいてけり異国にて
2002年12月 うしろすがたのしぐれていくか
最も人気のある自由律の俳人山頭火
彼は自ら松山を終焉の地に選びました。
道後温泉があったのも気に入ったようです。
道後にほど近いところに一草庵をあんでもらい、そこで生涯を閉じました。
何事にもルーズな彼はお世話をしてくれた恩人達を困らせました。
それでも松山の人々に愛され、幸せな日々だったらしい。。
それは、その間の句が明るく変化していることでもわかるそうです。
この句は残念ながら、山頭火が九州を放浪しているときの12月に作られたようです。
爪に歯を打ち当て やもめの晦日かな
爪に歯を打ち当てている晦日かな(和土)
2002年10月 あなたなる夜雨の葛のあなたかな 不器男
愛媛県松野町に生れ、26歳で夭逝した芝不器男の代表作。
仙台に着き、遥か伊予の故郷を思いと説明にあります。
これも教科書にありました。
その時、最初の「あなた」は、仙台の宿にいる不器男の、眼前に見える「あなた」ではなく、
前日泊まった宿の葛(葛の名所?多分そうだったと思います)だと考えたほうが趣が深い等と、
習った記憶があります。
それは虚子の名鑑賞です。
「この句は作者が仙台にはるば るついて、その道途を顧み、あなたなる、ます白河あたりだろうか 、そこで眺めた夜雨の中の葛を心に浮かべ、さらにそのあなたに故 国伊予をおもう、あたかも絵巻風の表現をとったのである。」
波郷 はこの句について、「この句の結構をみると、これは虚子解以外の 解は成り立たない絶対であることに気づくのである。」
即ち、この句は仙台にいる不器男、前日に泊まった白河あたりの宿の夜雨に打たれる葛、
そのあなたの伊予の松野町、といった三段跳びのような構成になっているのです。
しかし、そんなことを知らなくてもあなた・夜雨・葛の三語が組み合わさって醸し出す
雨に白く煙る冷え冷えとした旅情を感じるだけで十分ではないでしょうか。
2002年09月 糸瓜咲て痰のつまりし佛かな/痰一斗糸瓜の水も間に合はず/をとゝひのへちまの水も取らざりき 子規
101回へちま忌は9月19日
1902年に亡くなったので丁度今年が100年です。
しかし何故か全ての行事が100回、忌昨年で終わっています。
ベートーベンを偲ぶのに99年目なんて聞いたことがない。納得がいかないこと頻りです。
子規の評価はこれからますます重く広くなっていくと思います。
永遠に松山人の誇りです。
2002年07月 草茂みベースボールの道白し 子規
正岡子規は今でいう新聞のコラムで野球の普及に努めました。
今年野球殿堂入りしたのもそうした関係です。
走者、打者、飛球、直球など野球用語も子規の作ったものが今も使われています。
また、多分野球に関する俳句や和歌を最初に詠み発表した人でもあるようです。
恋知らぬ 猫のふり也 球あそび
など知人にバットを持った写真と伴に句を送っています。
主な野球に関する俳句は

正月や橙投げる屋敷町(明治29年新年の句)
春風やまりを投げたき草の原(明治23年)
まり投げて見たき広場や春の草(明治23年)
恋知らぬ猫のふり也球あそび(明治23年)
球うける極秘は風の柳かな(明治23年)
若草や子供集まりて毬を打つ(明治29年)
草茂みベースボールの道白し(明治29年)
夏草やベースボールの人遠し(明治31年)
生垣の外は枯野や球遊び(明治32年)
蒲公英やボールコロゲテ通リケリ(明治35年)
主な歌は

☆久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも
☆国人ととつ国人とうちきそふベースボールを見ればゆゝしも
☆若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如く者はあらじ
☆九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり
☆今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな
☆九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす
☆うちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きぞわづらふ
☆うちあぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に
☆なかなかにうちあげたるは危かり草行く球のとゞまらなくに  (明治31年『竹乃里歌』)
今月の句は今年オールスターゲームが行われた坊ちゃんスタジアムの句碑にあります。
個人的には4月の句

春風や毬を投げたき草の原

のほうが牧歌的で好きです。
とはいえ現在の松山人の野球好きの芽は此処まで遡るわけです。
今年も川之江が準決勝まで行きましたから、夏の甲子園県別勝率1位の座は揺ぎありません。
2002年05月 若鮎の二手になりて上りけり 子規
地元以外の方には、清冽な川を若鮎が上っている。それがたまたま二列になっている。
と思われるかもしれません。
しかし、この俳句はその昔、足立重信が松山中央を流れる石手川を、
現在の重信川(確か伊予川と呼ばれていた)に落とす土木工事を行い、
合流点を出会(であい)と呼んだ所で詠まれました。
ですから若鮎は、重信川と石手川に別れて上ってゆくのです。
けれども、そうした理屈はかえってこの句の興を殺ぐ気もします。
このままで、これから来る夏を予感させる生命力溢れる句ではないでしょうか。
2002年04月 春風や毬を投げたき草の原 子規
→2002年7月をご覧下さい。
2002年03月 毎年よ彼岸の入りに寒いのは 子規
これも教科書でおなじみの句。
母の言葉、自ずから句になりて、と子規の説明があります。
子規の新俳句運動の考え方を示す一句かもしれません。
2002年02月 赤い椿白い椿と落ちにけり 碧梧桐
虚子と並び子規門の双璧と言われた河東碧梧桐の句、才気溢れる句が多く、
後に新傾向と呼ばれる句風に走ったが後継者に恵まれなかった恨みがあります。
2002年01月 降る雪や明治は遠くなりにけり 草田男
中村草田男は中国大陸に生れましたが、3歳の時松山に帰り、松山中学、松山高校を経て、東京大学に進みました。
この句はあまりにも喧伝され、「明治は遠くなりにけり」が慣用句として使われるほどです。
しかし、今や明治どころか昭和も思い出の中に埋没しかねません。
それでも明治という時代の持つ重さを考えると、明治を知らない私達にも
何か懐旧の思いを抱かされる気がします。
子規偉し昭和は明治におよばざり(和土)子規忌にて
2001年12月 遠山に日の当たりたる枯野かな 虚子
近代俳句の父・子規の日本派俳句運動を、雑誌ホトトギスを通じ実質的に引き継いだ形となった高浜虚子の代表作。
子規が写生を強調したのに対し花鳥諷詠を主張した。長寿で、永らく俳壇の大御所として君臨しました。
この句は誰もが何処かでみた覚えがある風景を思い出させます。
教科書などでは、
 去年(こぞ)今年貫く棒の如きもの も有名です。
(2001年から2002年をつなぐ俳句として触れました。)
2001年11月 柿食えば鐘がなるなり法隆寺 子規
昔、たった一つ知っていた子規の句です。
子規が愚陀仏庵で漱石と暮らした後、東京に帰る途中、奈良にて詠んだ句だと記憶しています。
漱石と別れる時、高浜(港山)で詠んだ句が
 行く我に残れる汝に秋一つ(だと思う) 
 十一人一人になりて秋の暮れ
これが10月半ばですから、柿の句は10月かもしれません。
柿を好んだ子規に因み、銀天街・柳桜堂の子規好み山里柿がうまれました。
2001年10月 松山や秋より高き天守閣 子規
再び松山城です。日本三大平山城と称えられる松山城は、いかにも城下町らしい適度な広さの
平野の中央に、ぽっこりと存在します。
松山市民はいつも城を見上げて生活しています。
秋、抜けるような蒼さの空の中にある城を、見上げる子規の視線の角度が直感的に迫って来る句です。
2002年は築城400年、多くの行事が予定されています。
2001年09月 鶏頭の十四五本もありぬべし 子規
【鶏頭】ヒユ科の1年草、夏秋に赤または黄の小花を多数つけ鶏冠状をなす。
この句ほど多くの議論を惹起した句はありません。
教科書でもおなじみの句ですが、そもそもは当の子規すら特別視していたわけではありませんでした。
ところが長塚節(小説 土 の作者 子規宅へしばしば土産を持って見舞いに訪れています)が斎藤茂吉に
「この句がわかる俳人は今は居まい」と言ったことから大事(お-ごと〜伊予弁)になります。
茂吉は「竜馬漫語」の中で「これから子規の進むべき純熟の句が始まったのである。
もう寸毫も芭蕉でも蕪村でもないのである。」と賛美しました。
ここからこの句の神格化ともいえる方向性が生まれます。
評論家の山本健吉はこの句の世界を小宇宙と表現しましたが、子規宅の小庭に元気よく育った、
茎太で深紅に燃え立つ一叢の鶏頭達の生命感が醸し作る空間は、言われて見れば圧倒的です。
それは病床の子規と対比され、一入の思いが生まれるのです。
ところが、なにげない庭の写生からうまれたこの句を子規の後継者の一人虚子は評価しませんでした。
時代がかなり下って昭和16年、虚子が選んだ子規句集2306句の中にもこの句は入っていません。
しかし、写生句の真髄とも言えるこの句は、俳句史のみならず文学史にも大きな一歩を記した
と言っても過言ではないのかも知れません。
2001年07月 目をあけたプールのそこはひろかった(子規顕彰俳句大会入選句 小学1年生の作品)
松山の方なら毎夏銀天街の看板灯の下に小学生の俳句のパネルがずらっと下がるのをご存知でしょう。
あれは松山の教育委員会が主催する子規顕彰松山市小中高校生俳句大会入選句の小学生の部の作品です。
今年で9回目になるはずで、今や松山の夏の風物詩と自負しています。
そのお世話をしている中で最も印象に残った作品(何年か前で資料が手元にありません)をご紹介します。
まだ泳げない子供です。水泳の授業です。先生が先ず顔を水につけてみましょう、と言ったでしょう。
硬く目をつぶって顔をつけます。顔が水にぬれて嫌な感じです。そして先生に言われ、次はコワゴワ目を開けてみます。
そこであの水にゆがんだ白青色の視界が急に広がります。見たことのない世界です。
思わず目を見開いてしっかりプールの底の縁まで確認します。懸命に息をとめ、いきんだ彼の顔まで浮かんできます。
それどころか友達とプールへ入るまで騒ぎまわっていた様子からプールをあがるまでの一連の光景が
プールの授業として手に取るように想像できます。
こうした作品に出会うことを楽しみにしながら、俳句の街松山に暮らす喜びを感じています。
2001年06月 寝ころんで蝶泊まらせる外湯哉  一茶
江戸の昔、小林一茶が松山に来て詠んだ句
すこし季節はおそいかも知れませんが、下の城下町と並んで、道後の湯は松山の2大アイデンティティーなのでここに入れました。
日本最古の湯とされる道後温泉には、江戸時代この句のとおり、外湯があったらしい。
聖徳太子などの多くの皇族や、文人墨客が訪れ、文化を育む湯としても歴史の永さを誇っています。
小林一茶は二度道後を訪れています。その世話をしたのが、栗田樗堂(江戸時代の著名な俳人)、
あの時代一茶が二度も訪れたところに四国のお接待の伝統がみえます。
因みに漂白の俳人種田山頭火も終焉の地に松山を選んでいます。
「ずんぶりと湯の中の顔と顔笑う」
2001年05月 春や昔十五万石の城下かな  子規
松山を表すにこれ以上はない一句。
子規の写生論とは違いますが、広い意味で郷土を的確に写生していると言えます。
のどかな気候の古い城下町。どこからでも見つけることができる城山。
帰途・予讃線の車窓に松山城が見えてくる誇らしさは松山人が共有する感覚です。